昭和五十年四月十一日 朝の御理解
御理解 第八十一節 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十 里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩 めると、すぐに後へもどるぞ。」
深くも浅くも頂ける御教えだと思います。その人その人の信心の程度程度でそのところの御教えを本当にそうだなと合点が行くと思うです。
いいえ忘れとりません、金光様の事は忘れとりませんというて、この頃忙しさにかまけて、お参りが出来ない。
確かに忘れとりませんけれども疎遠になる。そう言いながら何日の間にか忘れてしもうて、いわゆる神様は忘れてはいないけれど、教えがどこかへ行ってしまう。
神様に変わりはないのですけれども、やはりそこから段々離れると、いわゆる神様から遠ざかるという事が、信心の抜けはじめとおっしゃるように、確かに抜けはじめで、段々神様を思う思いというのが薄うなって行く。
例えば善導寺の方からお参りして来る。合楽に近ずいて来れば来る程、ここの合楽教会がはっきり見えてくる。又心も何とはなしに神様に近づかせて頂いておるというか、それこそ信心が斬新な信心をさして貰うという時には、教会が見えただけで、走り出さなければおられないような、衝動すら感じられるようにすらある。
反対に今度帰って行く時にです、ふと振り返って見るとまだ見えておる。けど段々椛目あたりまで行きよりますと、いろんな障害がありましてね、森があったり家があったり、そして段々見えなくなっていくように、忘れてはおりませんけれども、そのようなもんだと私は思うです。
私はそのこのところに油断をしておるとは思わないけれども、やっぱり神様が遠のいてござるという事は、もうすでに油断をしておる証拠だと。
昨夜お月次祭が終わりましててから、福岡の秋永先生が、最近私は御神前に出てから只もう有難いばかり、何も言う事はない。別に祈りの言葉すらも出て来ない。只、有難いばかり何かそういう気持が近頃開けてきたのですがねというて、お話をしてます。本当に有難い事です。そういう事です
ですからそういう、例えば心の状態というのは、もうすでに神様との交流が始まっておるのです。もうそれこそ何と申しましょうかね、本当にそれは有難い境地です。 それこそ蚤がせせろと蚊が食【 】というごたる境地です。もうその事だけに自分の思いというか一念が、神様と交流しておる時です。本当に有難いね。
だからその有難い心でね、願わなければいけないという、その事を私は話たんです その有難いという心で願う。
もう神様と一つになっとるような心の状態、そういう心で願うのです。それも我情我欲の事じゃない。例えば五つの願い、合楽示現活動参画のおかげが頂きたい。
そういう心の状態をもって願わして頂けば、いよいよ素晴らしい事ですね。
神様の一つ一つ、神様が合点してくださるようなものがその次に感じられるでしょう、頂けるでしょう。ところがです、秋永先生の言われる、そういう素晴らしい心を開いただけではです、今度は御神前を離れますと、段々それが薄うなって行くです。 もうそこに油断をしておるようではないですけれども、油断が出来ておるのです。 だからそこに目に見える事、耳に聞こえる事全ての中にです、もちっと、どうかあるとよいというような、いわば不平のようなものが、いや不平がはっきり出てくるようになる。いうならばまあだ、おかげの頂きたらんような思いが起きて来るのです。 不思議です。それはあああってくれればよい、こうあってくれればよいと、そりゃ子供達の上にでも思いますよ。
それが神様と交流して有難いなあというた時には、目にあまるような事すらもです有難く心には映ってくるものです。もう何というですかね、信心の機微と申しますか そういう有難いもの、御神前を離れて、本当に有難い境地が開けて有難いというものですけど、その有難い境地で祈り続けさせて頂くようなものがないとです、私共はすぐ油断が出来て、そこに不平が出来、不足が出来、何とはなしに頂いても頂いてもおかげの頂きたらんような思いが湧いてくる。
あのね、あああってくれれば良いと、まあどうした事じゃろうかというようなです最近、今二階の方が改造しとりますので、子供達の行き場所がないのです。
皆それぞれ、今光昭の部屋に幹三郎が一緒しよるでしょうが、そしたら直子はおばあちゃんの部屋に必ず泊めてもらいますから、自分の居間と茶室を片づけて自分の道具やらを入れておるのです。
二、三日前一寸あそこを覗いて見たらまあ、とにかくこれ以上散らかす事は出来まい、わざわざこう箪笥の飾り棚があるその中の人形までこう混ぜくり散らかしたごとある。ほら真ん中に炬燵が置いてあるのは良いけれども、洋服はこんなふうに投げ散らかけちある。着物はこう、箪笥はこうというごたるふうに、それはともかくもう足の踏む場もないという位ごとあるですが、まあ、女の子のくせにまあどうした汚い事じゃろうと、まあどうした娘じゃろと思う時には、もう私の心の中に油断がある時です。それで掴まえといてから、あんた何ちゅうこつの、早う片付けなさいちゅうちからそれから二、三日してから、昨日です、見せて貰うたらやはり同じ事、言う事きかぬという事になるのです。
ははあ、こういうのがね、今の若い人に流行だろうと思うたです。私の方の子供達は皆そうなんですよ。幹三郎は少し清潔好きですけど、光昭の部屋がもうとにかくわざわざ投げ散らけたごとこうしてある。そしてその中を押しわけるようにしてから寝とるです。(笑い)
ほらもう今の若い人の考え方はもう、こげな大事な仕事をしよるとに、てんでステレオをガンガン、ガンガンかけちからですね、その大事な仕事をやっているのですよ 私だん、そげな事は出来わせんけど、そげんじゃなからにゃ仕事は出来んと、この頃から泉水のお掃除をしよるとはよかばってん、てんであそこに持ち出してガンガンやりよる、その泉水のお掃除をしながらでもそれを聴かなけりゃスム-ズに行かん。 リズムに乗ってからしよるとでしょうね。永井荷風という人がおりましたよね。あの人お書斎がそうだったそうです。それはまあだ、もっとひどかったそうです。
缶詰の食べ殻でも何でもそこに置いちゃる。そりゃもう、亡くなられた時には、それこそ、ごもくぞの中に沢山の金が置いちゃったというのですから、だから金ば何か使わんならん時にはそのごもくぞば、こうあせってから金出してかりゃならん。
いやそういうふうなんです。そして人が入って、こうやって書物なんかですね、取り片付けなんかすると、喧しかったそうです。それは良い考えがごもくぞの中から湧くのです。清潔にするとそれが気になって、気になって仕方がないのでしょうね。
直子の部屋がやっぱそうじゃろうと思うです。(一同大笑い)そりゃいっぺん参考の為に見て見なさい。そりゃ助かるです。
けど本人自身がそれで気分が良いのですからね。だから昨日は私の心の中に油断がなかった。ははあ、こういうのが今の若い人達の流行じゃろうと思うて、言う気も起こらんです、そうなると。
ところがそれが、どうしたというてこう、目にあまるよに段々なるときにはです、それこそ、これ程おかげを頂いとるのに、おかげの頂きたらんごと思うとるしるしなんです。だからおかげの頂きたらんごと思うとる時には、本当の合楽示現活動も出来んのです。
これ程おかげを頂いとるのに、それこそ秋永先生じゃないけれども、じぃ-と神様の前に座っておると、何にも言うことないという程しのおかげを頂いとるのです、お互いが。考えてみただけでも、もうあれを思いこれを思いしたらね、それこそ成程、不如意な事もあります。自分の思いの通りにならん事もありますけど、それも御都合と頂けれる。頂いておるおかげの方が大きい、大きい事のお礼を申さしてもらいよったら、不平不足の事位はもう差し引いて無くなってしまう位のもの。
例えば病気をしておってもです、例えば眼病を患うとるとしましてもです、花はあたりまえに香りもかげるし、お口はあたりまえに味が味わえるしのもは言えれるし、耳は聞こえるし、もう思えば思うほどおかげの中にある。只、眼病のところだけを見ると私だけどうしてこげん不幸せだろうかというようになる時には、それこそ頂いとるおかげももう頂き足らんごと思うとる。
私は今日はそういう例えば、気も緩めるとすぐ後へ戻るぞとおっしゃる。私共は生神金光大神の境地を目指して行く程の信心だから、今日はここの八十一節をもう、現在の私の信心の最高のところを頂いとるわけです。
それこそ生神を目指している程しの人ならです、まあどうした事じゃろうか、どうした奴じゃろうかと思うてよかろうはずがない。
一つ自分の思いというか、外へ持って行くとあれもおかげ、これもおかげと、おかげを受けておるばっかりの中に、一事二事不如意な事がある、自分の思うようにならんからというて、それをどうこうという事は、油断が出来ておる事ですから、そこに生神金光大神の境地が見えておっても、そこんところへ下へおりてしまっておるという事になるのです。
昨日そこの久保山さんがお届けされるのに、前もって一回お届けがあって。それがまあだ生々しゅう心に残っておって心にかかる、お夢を頂いとった事を又、改めてお届けをなさるる。非常に高い山に登っておった。ところがどうした事かころころと八合目のところまで落ちた。普通でいうなら本当に絶壁のようなところだから、怪我せんならんのだけれどふわっとしたというのです。
ところがね、そこには大きな蛇がずくろ巻い取った上に落ちたから、ふわっとして怪我しなかったというのですよ。
もうその蛇ちゃフルフル好かん。それにその大蛇のごたるとが渦を巻いとる。その蛇の上に落ちとんなさるきな、それでふわっとしとるわけです。
まあ最近頂いとるけど有難うして有難うしてと、秋永先生じゃないけど、それこそ心が痺れる程の有難さを感受しとる時にはです、いうならある意味においての頂上を極められとるところでしょう。
けれども油断が一寸出来たところから落ちた。落ちたところにはいうならば、めぐりのおかげで怪我をせんですんだという感じがする。
めぐりというけれども、めぐりのお取り祓いというけれども、実をいうたらめぐりと仲ようする信心ぞと教えてあるのですから、そこに難儀がある、その難儀の元を探るとそれはめぐりのせいである。そのめぐりのせいを又掘り下げておると、それは自分の心に帰してしまう。身のめぐりであるという事がわかる。人じゃない自分自身の心の中にめぐりがどぐろを巻いておるという事である。
それがそこに身の難儀を感じる、おかげで又信心が出来るという事であるから、ほんに、めぐり様あなたのおかげで信心が出来ますと言うことなんです。
そういう意味に於いておかげで又信心が出来るいう事になるのですから、ほんに、めぐり様あなたのおかげで信心が出来ますという事になるのです。
そういう意味に於いてです、めぐりと仲ようしているうちに、めぐりもいたたまれなくなって消えて行くようなおかげになってくるのです。
けど頂上を極めるまではおかげになってくるのです。だから油断をしてはならん。けど極めたというてもです、向こうへ降りたら安心じことおおおせられるようなです信心が出来させてもらう。私共の心の中にそこに不平が起こり不足が起こり、あああったらよかろう、こうあったらよかろうと思います時には、もうすでに私共の心の中に油断が出来とる時であり頂いておるげを思うたら、有難いのですけれども、言う事はいらんのですけれども、それを感じる時にはもうすでに油断が出来とると思うて自分の心を神様に向ける。神様に向けるとな-にもいうならば、言う事はないという事になるのです。
秋永先生がゆうべ言うとられた、近頃は御祈念さして頂いて、有難い有難い、何も言う事はないとこういう。それ程しのおかげを頂いとるから、それで良いかというとそれでない証拠に、なら、自分の働いておる現場なら現場に戻りますとです、あれが目につき、これが気がついて、いらいらしたり腹が立ったりする事はもうすでに油断が出来とる証拠なんです。ですから如何に信心というものを、それこそ取り落とさない油断精進して行かなければならないかという事を、そこは頂けるのですけれど、そこはです不平であり不満であると、いわば目にあまるような事をその暖かい心で、祈って行くのである。願って行くのである。願って、願って行くうちに、その事にたいしてめぐりに対してでもです、めぐりによってそこに難儀を見るならばです、そのめぐり様のおかげで、新たな信心が出来ますとお礼が言えれるような、境地も開けてくる。今日は私はぎりぎりこの八十一節をです、もう合楽の最高の信心で聞いて頂きました。どうぞ。